「見える目が与えられるように求めよう」マタイによる福音書23章13~24節 2026年7月5日
(はじめに)
お読みした聖書個所には、不幸について書いてありました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」(13節)。あなたたちは不幸だ、と繰り返し、語られています。何が不幸なのでしょうか。そのことをこれから読んでいきますが、一方で聖書には、幸いについても書いてあります。マタイによる福音書5章3節からです。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。このような言葉から始まる幸いの言葉です。何が幸いなのでしょうか、何が不幸なのでしょうか。聖書から聴いていきましょう。
(聖書から)
今日お読みした聖書の言葉には、五つの不幸が語られていました。あなたがたは不幸だ。そういう言葉を繰り返し聴くのは、うんざりしますが、別の訳では、「不幸」と訳されている言葉が、「わざわい」(口語訳など)となっています。不幸という言葉だけを聞くと、何かその人の状況を言っているようですが、あなたがたはわざわいだ、という言葉からは、状況というよりも、その人の生き方について言われているように思います。こういう生き方はわざわいだ。それは良い生き方ではない。そのような忠告、アドバイスがここに語られていると受け止めていったらよいのではないかと思います。
まず、13節をお読みします。
23:13 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
ここには、イエスさまの言葉が語られています。イエスさまが、律法学者たちとファリサイ派の人々に向けて語られた忠告、アドバイスと言ってもいい言葉です。ところで、律法学者たち、ファリサイ派の人々というのは、イエスさまから不幸だ、わざわいだ、と言われるほど、良くない生き方をしていたのでしょうか?いいえ、律法学者たち、ファリサイ派の人々、この人たちは、とても真面目に、神さまの掟を守ることに日々、励んでいた人たちでした。ですから、おそらく、今の時代に、この人たちが、私たちの目の前にいたなら、私たちは彼らに賞賛の言葉を贈ったことでしょう。言葉においても、行いにおいても、優れた人たち、人の模範になるような人たちだったと言ってもよいと思います。ところが、その人たちに向かって、イエスさまはなぜ、厳しい言葉を語られたのでしょうか?
ここでその理由について考えてみたいと思うのですが、イエスさまは、律法学者たち、ファリサイ派の人々のことを何と呼んでいるか、ということです。お読みした13節では、「あなたたち偽善者」と言われています。15節でも繰り返し、「あなたたち偽善者」と言われています。律法学者たち、ファリサイ派の人々のことを偽善者と言われるのです。
偽善者とは何でしょうか?国語辞典から調べてみると、偽善ということについて、「いかにも善人であるように見せかけるおこない。うわべだけのよいおこない」(『角川必携国語辞典』)と書いてありました。新約聖書はギリシア語で書かれたものです。ギリシア語では、「偽善者」と日本語で訳されている言葉が、「俳優」を意味する言葉になっています。俳優というのは、舞台などでいろいろな役を演じる人のことです。つまり、ここでイエスさまが言われた「偽善者」というのは、本来、その人ではない者を演じているということです。本来の、本当の自分ではない者のように演じているように、その人の心の中と外側が、違っている、分離している状態ということになるでしょうか。そういう彼らのことをイエスさまは知っておられ、見抜いておられ、厳しく語られたのです。
そうは言っても、外側だけでも、立派な行いをするのなら、それはそれでいいのではないか?と思われる方があるかもしれません。けれどもイエスさまは、このようなことを言われています(5章27、28節)。
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
これは姦淫してはならない、という掟について、イエスさまが言われた言葉です。ここには「心の中で」とあります。神さまは、私たちの心の中を見られる方です。たとえ、姦淫をしなくても、心の中で姦淫するなら、それは姦淫しているのと同じだ、と言われるのです。つまり、目に見えるところ、外側だけでなく、心の中まで、神さまに従うことが教えられているのです。心の中まで、と言われるとどうでしょうか?私たちはそこまで神さまに従うことができるでしょうか?すると、私たちは、自分は神さまの掟を守っています!と簡単に言うことはできない者なのではないでしょうか?むしろ、自分は神さまの掟を完全には守ることができない、不完全な者であり、一人の罪人に過ぎない・・・。それなのに、当時の律法学者たち、ファリサイ派の人々は、そのことには気づかないまま、自分たちは、神さまの掟を忠実に守っている。そのように誇り、自分が審判者のようになり、神さまに従っていないあの人、この人は罪人だ、と多くの人々を裁いていたのです。そのことをイエスさまは知っておられ、裁くあなたがたはいったい何者か?と問われたのです。
16節からは、イエスさまは、律法学者たち、ファリサイ派の人々のことをこのように言われます。「ものの見えない案内人、あなたがたは不幸だ」。ものの見えない案内人。ここで見えないというのは、目が見えないということが言われているのではありません。心の目が見えない、本当に大事なことが見えていない、分かっていない、という意味です。しかもここには、案内人とあります。見えないあなたがたが、神さまの案内人になっている、と言われているのです。見えない、つまり、本当には神さまのことが分かっていないあなたがたが、人々を神さまへ案内することができるのだろうか?ということです。
律法学者たちとファリサイ派の人々が、偽善者であり、ものの見えない案内人になっていることを、イエスさまは具体的な例を挙げて語っておられますが、例えば、23節には、このようなことが言われています。
23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
あなたがたは、十分の一の献げものを忠実に行っていると思っているけれども、あなたがたの信仰の中身は、心の中はどうなのか?と言われているのです。「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」。私は、あれを献げました、これを行いました、と誇っているけれども、その心の中はどうなのか?正義、慈悲、誠実をないがしろにしているというのは、神さまに対する愛が欠けているということです。あなたがたは、自分が神さまの掟を守っていると自負しているが、それは神さまに対する愛からではなくて、自分を誇るためではないのか、義務として形だけで行っているだけではないのか、と言われているのです。
愛の章として知られるコリントの信徒への手紙一13章には、繰り返し、愛がなければ、虚しい、ということが語られています(一コリント13章1~3節)。
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
イエスさまは、何をするにも、愛がなければ虚しい。つまり、何をするにも愛を持って行うように、と言われたのです。これは、私たちの神さまとの関係、そして、人々との関係でも大事なことです。皆さんはどうでしょうか?例えば、自分と家族との関係などを考えてみるなら、愛がなければ、愛を持って、このことが大事なことであると気づかされているのではないでしょうか。
偽善者、ものの見えない案内人。イエスさまは、大変厳しい言葉を語られましたが、これはただ厳しい、裁きの言葉として語られたのではないと思います。最初にも言いましたが、イエスさまは、律法学者たち、ファリサイ派の人々が、自分の義、自分の正しさを主張すること、自分を誇ることを求めることで、本当に大事なこと、神さまに対する愛、隣人に対する愛を見失っている様子をご覧になって、彼らに大事な忠告として、アドバイスとして語ったことではないでしょうか。
(むすび)
今日の説教題は、「見える目が与えられるように求めよう」としました。これは、今日の聖書個所の中で、イエスさまが、律法学者たち、ファリサイ派の人々に「ものの見えない案内人」、「ものの見えない者たち」と言われたことから考えて付けてみました。イエスさまは、あなたがたは、見えないままではなくて、見える目が与えられるように求めなさい。そのような願いを持って語られたのではないでしょうか。見える目が与えられるように、ということから、一つの聖書の言葉をお読みしたいと思います。エフェソの信徒への手紙1章17~19節です。
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、1:18 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。1:19 また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
「心の目を開いてくださるように」とあります。心の目、信仰の目と言ってもいいでしょう。イエス・キリストを信じるということは、心の目が開かれるということです。心の目が開かれると、自分が神さまの前には一人の罪人であるということが見えるようになる、気づかされるようになるのです。そして、自分がイエス・キリストの十字架によって赦された者であることが見えるようになる、分かるようになるのです。ただいまお読みした聖書の言葉には、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」とありました。私たちが神さまの前に立つ時、心の目が開かれて、自分の罪に気づかされ、神さまの愛と赦しが分かるようになり、さらには、神さまの恵みを知らされていくのです。見える目が与えられるように求めていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまが律法学者たち、ファリサイ派の人々に語られた言葉はとても厳しい言葉でした。しかし、それは、彼らが自分の義や誇りによらず、神さまの愛と赦しを信じて生きる者になってほしいと願って語られたことでした。
私たちも、時にみ言葉から厳しい語りかけを、問いかけを受けることがあります。しかし、それは、私たちが神さまの愛と赦しを信じて生きる者になってほしいと願って語られたことです。私は神さまに愛されている、神さまによって罪を赦されている。その感謝、喜びから生きる私たちであるよう導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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