「 主に不可能なことがあろうか」 創世記18章1~15節 2026年6月28日
(はじめに)
アブラハムのところに三人の訪問者があった、ということから、今日の聖書の箇所は始まります。それは思いがけない出会いでした。私は、今日のこの箇所を読んで、新約聖書の中のイエスさまと出会った一人の人のことを思い起こします。それはマタイという人です。マタイによる福音書9章9節には、このようなことが書かれています。「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」。ルカによる福音書にも同じ記事があります。ルカによる福音書5章27、28節です。「その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」。ルカによる福音書に出てくるレビという人は、マタイと同一人物であると言われています。マタイによる福音書というのは、そのマタイが編集した福音書と言われています。マタイの人生を大きく変えた出会い、それがイエスさまとの出会いでした。ルカの記事では、イエスさまの呼びかけに対して、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。それは出会いの大きさを物語っています。本当に主に出会ったら、人は変わるということです。何もかも捨てる、というのは、あれを捨て。これを捨て、というよりも自分で自分に従うことをやめることだと思います。自分を主とすることをやめることだと思います。そして、人は、イエスさまに従う者となるのです。イエスさまに従う。それは、イエスさまに自分の人生を委ねるということです。
(聖書から)
旧約聖書のアブラハムの記事を読みました。ただいまは訪問者ということで、マタイのところに訪問した、マタイに出会ってくださったイエスさま、その個所をただ今お読みしましたが、創世記の箇所を見ていきましょう。1節から以下をお読みします。
18:1 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、18:3 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。18:4 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。18:5 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」
三人の人がアブラハムのところに訪ねてきました。すると、アブラハムはどうしたかと言いますと、走り出て迎え、地にひれ伏して、水をお持ちします、食べ物をお持ちします、と言っています。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。・・・せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」とアブラハムは彼らに言います。積極的に客人を迎え入れている様子が分かります。ヘブライ人への手紙13章2節には「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とありますが、これはこの時のアブラハムのことを示していると言われます。
そして、三人の訪問者はアブラハムが歓迎してくれたことで、そこに滞在することになりました。アブラハムは妻のサラにパン菓子を用意するように言っています(6節)。訪問者たちにはある目的がありました。9節からお読みします。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、18:10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
彼らはアブラハムに「あなたの妻のサラはどこにいますか」と尋ねました。そして、彼らの中の一人が、このようなことを言いました。それはアブラハムの妻サラに男の子が生まれる、ということでした。すると、その話をすぐ後ろの天幕の入り口で妻のサラが聞いていたということです。これを聞いていたサラはどうしたでしょうか。そのことについてこのように書かれています。
18:11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。18:12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。
アブラハムとサラについて、「老人」とあります。先月お話しした創世記17章には、この時、アブラハムは九十九歳とありました。創世記17章17節では、アブラハムが自分のことを百歳の男、妻のサラのことを九十歳と言っています。確かに高齢の夫婦です。その二人から子供が生まれるはずはないと思うのは、常識的なことだと思います。サラについては、12節に「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである」とありました。
サラは訪問者の言ったことが信じられませんでした。何とおかしな、実現不可能なことを言われるのだろうか?と思い、ひそかに笑ったのでしょう。先月もお話ししましたが、このひそかに笑った、というのは、「心の中で笑った」(聖書協会共同訳)ということです。一方、夫のアブラハムですが、先月お読みした17章を振り返ってみるとアブラハムも同じ反応だったことが分かります。17章15~17節をお読みします。
17:15 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。17:16 わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」
17:17 アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
アブラハムも信じられず、笑ったのです。ところが、今日の箇所では、サラが笑ったことについて、このようなことが書かれていました。
18:13 主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。18:14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」
ここで注目したいことは、「主はアブラハムに言われた」ということです。遡って、1節には、「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた」とあります。ここから分かることは、神さまは、アブラハムの前に三人の訪問者の姿で現れた、ということです。すると、サラに子供が生まれると言ったのも、神さまが言われたことだったことが分かります。サラはひそかに、つまり、心の中で笑いました。しかし、神さまは心の中をご存じの方です。聖書の中には、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16章7節)という言葉もあります。私たちは、心の中なら、何を考えても、思ってもいいだろう、と思うかもしれませんが、心の中のことがやがて、表に出てくる、言葉や行いとして現われます。ですから、日頃から、心の中を見られる神さまと対話することが大事です。祈りというのは、そういうことでもあると思います。
神さまは、アブラハムにこのように言われました。「なぜサラは笑ったのか。・・・主に不可能なことがあろうか」。17章には、神さまがアブラハムに子供が生まれることをすでに語っておられたことが分かります。そして、今日の聖書の個所では、神さまは、再び、彼らに語られたのです。
神さまが語られることを信じられなかったアブラハムとサラでした。そういう夫婦に、神さまは訪問者、旅人の姿でわざわざこの夫婦のところに訪ねてくださいました。神さまは、信じられずに笑われても、それでもアブラハムとサラに繰り返し、語られたのです。
「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」。信じられないでいる彼らにこのように言われたのです。「主に不可能なことがあろうか」。神さまはどのようなお方ですか?神さまには不可能なことはありません。彼らに信仰を求められたのです。
(むすび)
15節を読んで終わります。
18:15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
ここには、サラと神さまのやり取り、対話が書かれていました。サラは、私は笑っていない、と言っています。しかし、神さまは、いや、あなたは確かに笑った、と言われました。神さまは本気なのです。神さまは、サラに対して、信仰を求められたのです。「主に不可能なことがあろうか」。神さまが言われたことは必ず実現する。このことを信じるように求められたのです。
今日の聖書個所からは、神さまという方は、私たちに、ご自分を信じること、信頼することを求められる方であることが分かります。信頼というと、私たちは本当に信頼できる人には、その心の思いを率直に表すのではないでしょうか。皆さんには、そういう人はいるでしょうか?聖書は繰り返し、神さまを信頼しなさい、と語ります。その聖書の言葉の一つをお読みして終わりたいと思います(フィリピ4章6、7節)。
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
ここには、私たちの心のすべてを神さまに打ち明けて、委ねていくことが教えられています。すると、そこから、神さまからの平和が、平安が与えられるというのです。お祈りいたします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
アブラハムとサラの夫婦に、神さまがご自分のことを信頼するように、促した聖書の個所をお読みしました。私たちも、神さまをなかなか信頼できないでいる者ですが、そういう私たちにそれでも語りかけ、出会ってくださる神さまであることをおぼえ、神さまを信頼し、神さまに自分を委ねて歩む者としてください。いろいろと思い煩うことの多い私たちですが、私たちに主の平安を与えてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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