わたしだけでなく(二テモテ4章1~8節) 【週報巻頭言】2026年7月19日
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。(二テモテ4章6~8節)
「世を去る時が近づきました」とあります。「世を去る時」ということからは、パウロの遺言のように聞こえます。パウロの生涯は、イエス・キリストを宣べ伝える生涯でした。最期の日まで、主のご用のために、という思いが感じられます。
「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」。この「戦い」とは、信仰の戦いのことです。福音宣教のための戦い、また、日々、罪との戦いもあったでしょう。パウロは「決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」と言っています。主が、主の道を走り通すことができるように導いてくださる。私たちの信仰を主が守ってくださるのです。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」。主に自分を委ねて歩んでいくなら、主の道を完走し、信仰の勝利を得させていただけるのです。パウロは、この言葉の後に、このようなことも言っています。
「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」。パウロは、自分の人生の終わりを思いながら、この言葉を語っていますが、「しかし、わたしだけでなく」と言っています。パウロが、自分だけが救いにあずかり、信仰の勝利を得るのではなく、みんなにもこの恵みを受けてほしい、と願っていたのです。それが、「わたしだけでなく」という言葉に表されていると思います。
「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」。主が再びおいでになる。その日を待ち望む人には、誰にでも主は義の栄冠を授けてくださるのです。私だけでなく、あの人も、この人も、この栄冠を受けてほしい、救いにあずかってほしい。それが、パウロの願い、祈りでした。そして、私たちもこのことを願い、祈っていきたいと思うのです。私だけでなく、私の愛するあの人、この人も、義の栄冠を受けてほしい、主の救いを受けてほしい。私たちは、そのような願いを持って、祈りを持って、主の福音を宣べ伝えていきましょう。
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