「最後まで耐え忍ぶ者」マタイによる福音書24章1~14節 2026年8月9日
(はじめに)
今日は8月9日です。1945年、今から81年前のこの日、長崎に原爆が投下されて、多くの命が失われました。またその三日前、1945年の8月6日は広島に原爆が投下されて、やはり多くの命が失われました。毎年、この時期には被爆された方々の証言が新聞やテレビなどで取り上げられますが、後世の人たち、私たちの次の世代の人たちに戦争の悲惨さ、平和を求めることを語り伝えていく必要をおぼえさせられます。聖書の中に「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5章9節)というイエスさまの言葉があります。別の訳では「平和をつくり出す人たち」(口語訳)となっていますが、この言葉の後には「その人たちは神の子と呼ばれる」と続きます。神の子、それは神さまに造られた私たちのことです。つまり、神さまに造られた私たちに与えられている使命、それは平和を実現すること、平和を造り出すことだということではないでしょうか。この8月というのは15日に終戦記念日がありますが、戦争はしない、平和を造り出そう、という決意をもって過ごす月としたいと思います。
(聖書から)
さて、お読みした聖書は、マタイによる福音書24章1~14節です。新共同訳聖書の小見出しには、1、2節には「神殿の崩壊を予告する」とあり、3~14節は「終末の徴」とあります。まず、1、2節をお読みします。
24:1 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。24:2 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」
神殿というのは、神さまを礼拝する場所です。イエスさまの弟子たちが、イエスさまに近寄って来て、神殿の建物を指さした、とあります。この神殿はエルサレムにあった神殿で、もともとはイスラエルの王ソロモンによって建てられました。最初に建てられた神殿は、第一神殿とか、ソロモンによって建てられたということで、ソロモンの神殿と呼ばれました。しかし、イスラエルが南北に分裂した後、バビロン捕囚の時に破壊されてしまいましたが、イエスさまの時代、当時、ユダヤを治めていたヘロデによって再建されました。このヘロデはヘロデ大王と呼ばれる人で、幼子の時代のイエスさまを殺そうとした人物です。弟子たちが指さした神殿は、ヘロデによって建てられた神殿、ヘロデの神殿、第二神殿と呼ばれるものでした。
なぜ、イエスさまの弟子たちが神殿を指さしたのか、というと、今日お読みした聖書個所のすぐ前のところに書かれているイエスさまの言葉がありますが、そこで語られたことを気にしていたようです。イエスさまがエルサレムのために嘆いた、という個所です(23章37~39節)。
23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
イエスさまは、神さまに不従順な民をお嘆きになりました。先日、広島の平和祈念式典をテレビで観ていましたら、式典であいさつされた人たちの何人かが、核廃絶を訴える声が戦後まもなくありながら、80年経った今でも実現しないでいる、と語っておられました。私はその言葉を聞きながら、それが、なぜ、実現しないのか?という嘆きの言葉にも思えました。それはまるでイエスさまの嘆きのようです。なぜ、正しいことが行われないでいるのか?実現しないでいるのか?
このイエスさまの嘆きの言葉の中に「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」とありました。「お前たちの家」、それは、神殿のことです。神さまを礼拝するところ、人々の信仰の拠り所です。そこが見捨てられ、荒れ果てる、と言われたことに弟子たちは大きな衝撃を受けたのです。そこで、彼らはイエスさまに、神殿を指さしたのです。私たちが神さまを礼拝するところ、信仰の拠り所はどうなってしまうのでしょうか?と尋ねているように思えます。すると、イエスさまは、彼らにこのように言われました。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(24章2節)。「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。これはどういうことかというと、神殿が崩壊するということです。
このイエスさまの言葉を受けて、弟子たちがある質問をします。
24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
このやり取りは、イエスさまが神殿崩壊の話をされて、少し時間が経った後のことだったのでしょう。イエスさまと弟子たちがオリーブ山に行かれた時の会話です。「弟子たちがやって来て、ひそかに言った」とあります。「ひそかに」とありますが、それだけ深刻なことと考えて質問したのかもしれません。「そのことはいつ起こるのですか」。「そのこと」というのは、神殿が崩壊することです。そして、その後に「あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」と質問していますが、弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを同じことと考えていたようです。神殿が崩壊するとは、もう世の終わりが来るということだ。ああ、すべてが終わってしまうのだ・・・。今は、21世紀ですが、20世紀の後半というのは、世紀末ということもあってか、終末論、終末思想というのがあちこちでブームのように騒がれました。1999年に世界は滅亡する。そういう映画や本もありました。そういうものに煽られて、この世はいつ終わるのだろうか、と恐れや不安を抱いていた人たちが多くいたことを思い出します。
世の終わりの徴についての質問にイエスさまはお答えになりました。
24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
まず、イエスさまが言われたこと、それは「人に惑わされないように気をつけなさい」ということでした。この世は終わる、滅びる。そう言って、人を惑わす者が現れる、というのです。人を惑わす者、宗教者でも、政治家でも、いろいろなところで、そういう人物が現れるというのです。しかし、惑わされないようにしなさい、とイエスさまは言われます。
24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。
戦争、飢饉、地震といったものは、私たちを恐怖に陥らせます。世界終末時計といって、人類滅亡の時を午前0時になぞらえて、そこまでの残り時間を象徴的に示すものがあります。これは人々を煽ったり、惑わしたりするためではなく、警告という意味があると思います。ちなみに、今年、今の時点では、人類滅亡までどれだけの残りの時間があると示されているでしょうか?85秒、1分25秒だそうです。これは今までで最も短い時間だそうです。それだけ今の時代は危機的な状態にあるということです。
聖書の言葉に戻ります。イエスさまは言われました。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(24章6節)。「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」(24章8節)。世の終わりではない。産みの苦しみの始まりだ、と言われます。
24:9 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。24:10 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。24:11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。
「あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」。これは、キリストを信じる者に対する迫害のことが言われているそうです。また、つまずき、裏切り、憎み合う。偽預言者による惑わし、不法がはびこり、愛が冷える。イエスさまは、希望の無いような、不安を感じることばかりを言われているようですが、私たちの時代というのは、まさに、イエスさまが言われているようなことが起こっている時代なのではないでしょうか。
(むすび)
イエスさまが語られたこと、それはその当時の現実であり、私たちが生きているこの時代の現実ではないでしょうか。私たちは、このような現実を受け止められず、逃避してしまいたい、と思うかもしれません。宗教というと、現実逃避だ、と言われることがあります。しかし、イエスさまの言葉を聞いていきますと、キリストを信じる信仰とはそういうものではないことが分かります。むしろ、現実のただ中を生きていくことを教えているように思います。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。24:14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
「世の中は様々な苦しみで溢れているけれども、まるで何もなかったかのようにして、現実を忘れ、世の中から離れ、夢の世界を、幻の世界を生きていきましょう!」いいえ、イエスさまは、そんなことは言われないのです。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(24章13節)と言われました。現実のただ中で、耐え忍びなさい、忍耐しなさい、と言われるのです。なぜ、そう言われるのでしょうか?それは、主が共におられるからです。主が私たちと一緒に世の苦難の中を歩んでくださるからです。十字架の苦しみ、それは、イエスさまが私たちの罪を担ってくださった苦しみであり、イエスさまが私たちと世の苦難を一緒に担ってくださる苦しみでもあるのです。
「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる」(24章14節)。私たちが、世にあってすることは何でしょうか?それは、福音を宣べ伝えるということです。イエス・キリストの救いを宣べ伝える。そして、イエス・キリストが示された福音に生きるのです。イエスさまは、この世には、裏切りがあり、憎しみがあり、不法がはびこり、愛が冷えるということを予告されました。福音に生きるとは、それとは反対の道を生きることです。神さまの愛に生きること、神さまの真実に生きることです。
アッシジの聖フランシスコという人をご存じでしょうか。12~13世紀のカトリック教会の修道士です。前のカトリック教会の教皇はフランシスコという名前でしたが、それはこのアッシジの聖フランシスコから取ったそうです。アッシジの聖フランシスコの祈りとして知られているのが、「平和を求める祈り」です。こういう祈りです。
平和を求める祈り
神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。
(聖パウロ女子修道会〔女子パウロ会〕公式サイトから)
今は、産みの苦しみの時だとイエスさまは言われました。私たちは、様々な苦しみを通らされますが、やがて、イエスさまが再び来られ、神さまの愛と義が支配する時が来る。このことを待ち望みながら、神さまの愛と義(平和)を求めて、祈りつつ励んでいきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちが生きているこの世は、神さまの愛と義から離れているように思えます。また私たち自身も、この世の流れに流されていることがあります。主は、今は産みの苦しみの時であり、最後まで耐え忍ぶように、福音を宣べ伝えるように、と言われました。主は再び来られ、神さまの愛と義が支配する時が来ます。その時を待ち望みながら、主のみ心を求めて生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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