神の民とされた私たち(ペトロの手紙一2章1〜10節)
「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」(1節)、これらは愛とはかけ離れたことです。このようなものはみんな捨て去ってしまうように、というのです。そして、乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めるように、と言われています。ここに言われている「霊の乳」(1節)とは神様の言葉のことです。み言葉を乳飲み子のように、慕い求めよ。お母さんの母乳というのは、殺菌作用があると聞いたことがあります。ですから、乳児にとって、お乳は栄養だけでなく、体の中の悪いものからも守ってくれる効果があります。み言葉もそうではないでしょうか。私たちの心にはいろいろな悪い思いが出てきます。しかし、私たちはみ言葉をいただき、そういった悪いものから遠ざかるのです。それらを捨て去っていくのです。み言葉によって、成長し、救いの道を歩んでいくのです。
イエス・キリストは人々からは受け入れられませんでした。人々に捨てられた石です。しかし、神様からは「選ばれた、尊い、生きた石」(4節)であるというのです。そして、私たちも生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるように、と言われています。霊的な家とは、教会のことです。キリストの教会として造り上げられるように、ということが言われています。このイエス・キリストという生きた石は「かなめ石」であり、「親石」です(6、7節)。教会はイエス・キリストを土台として、造り上げられていくことが示されています。そして、今はその途上です。完成に向かって、私たちは励んでいくのです。教会が造り上げられていくように、励んでいくのです。建物を建てるときは設計図を見て、それにしたがって建てていきますが、教会の設計図とは、神様の言葉です。教会はみ言葉によって建てられていくのです。
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