【礼拝説教】2023年6月18日「キリストは初穂となられた」
聖書―コリントの信徒への手紙一15章20~28節
(はじめに)
お読みしました聖書の言葉は、一つの問いに答える形で語られています。その問いというのは、このコリントの信徒への手紙一15章12節に書いてあったことです。
15:12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
ここに「キリストは死者の中から復活した」とありました。イエス・キリストは、死者の中から復活されました。今年は、4月9日がイースター、復活祭でした。イエスさまは、私たちを罪と死の滅びから救うために、十字架にかかって死なれました。しかし、イエスさまはそれから三日目に復活されました。復活されたのは、日曜日の朝でした。それでキリスト教会は、毎週日曜日の朝、イエスさまが復活されたことを記念して、礼拝しています。
(聖書から)
さて、パウロはコリントの教会に手紙を書き送りました。それが、このコリントの信徒への手紙です。その中に、コリントの教会の人たちの一部の人たちが、イエスさまが復活されたことは信じているけれども、死者の復活、つまり、私たち人間の復活は信じない、ということを聞いて、この手紙にそのことに対する答えを書いたのです。
それでは、コリントの教会の一部の人たちは、なぜ、イエスさまの復活は信じているのに、死者の復活は信じなかったのでしょうか?それは、ある人たちの考えに影響されたからです。その人たちというのは、グノーシス主義という考えの人たちでした。霊肉二元論という考えで人間は霊と肉の二つからできていて、人間は死んだら、肉体は罪によって滅びるけれども、霊魂には罪がなく、永遠に滅びることがない、というものでした。コリントの教会の一部の人たちは、その影響を受けて、人間は、復活はしない。肉体は滅ぶが、霊魂は永遠に滅びない。それが私たちの救いなのだ、と考えたのです。
それに対して、パウロは、霊肉二元論とか、霊魂だけの救いとか、それは聖書が教える救いとは違う、と言って、イエスさまが復活したように、この世の終わりの時には、私たち人間も復活する、ということを示したのです。20節には、このように書かれています。
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
「眠りについた人たち」というのは、この手紙を書いた時、もうすでにキリストを信じていて、死んでしまった人たちのことです。パウロは、死んでしまった人たちのことを「眠りについた人たち」と言い表すことで、この世の終わりの時には、その人たちも、イエスさまと同じように、神さまによって眠りから起こされる。すなわち、復活させられるということを示したのです。「初穂」というのは、その年に畑で収穫される最初の作物のことです。それと同じように、イエスさまが復活されたというのは、私たちとは無関係のことではなく、イエスさまを信じる私たちも、この世の終わりの時に復活させられる、ということなのです。最初にイースターの話をしましたが、私たちは、毎年、イースターを迎える時には、そのことをおぼえていたいと思うのです。イエスさまが復活された。イエスさまは罪と死に勝利された。そのことによって、終わりの時には、先にイエスさまを信じて天に召された人たち、そして、私たちも復活させられる。これは大きな希望です。
次の21、22節には、このようなことが書かれています。
15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
私たち人間がなぜ、死すべき存在となったのかが、説明されています。21節には「死が一人の人によって来た」とあります。私たち人間は、一人の人によって、永遠に生きることができない、死すべき存在となりました。では、一人の人というのは誰かというと、22節に「アダムによってすべての人が死ぬことになった」とあります。
聖書を開くと、最初に書かれているのは、創世記です。そこには、神さまがすべてのものをお造りになった、という話が書かれています。神さまが人間をお造りになったことも書かれています。その中の一か所を読んでみますと、こういうことが書いてあります(創世記1章31節)。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
「極めて良かった」と書いてあります。神さまが造られたもの、そのすべては極めて良かった、というのです。私たち人間も、神さまから、極めて良かったと言われているのです。神さまの目には、私たちは極めて良いものなのです。
ところが、同じ創世記3章には、人間に罪が入った、ということが書かれています。『聖書教育』では、7月号から創世記を学びますので、そのことについては、教会学校で、じっくりと学んでいただけたらと思いますが、人間に罪が入り、人間は死すべき存在となったのです。
ところで、聖書が教える罪というのはどういうものかというと、神さまとの関係が崩れてしまうこと、神さまとの交わりに生きることができなくなることです。最初の人間アダムは、神さまとの関係、神さまとの交わりに生きることを拒んでしまったのです。それ以来、私たち人間は、死すべき存在となりました。しかし、神さまは、私たち人間をそのままにはされないで、神さまとの関係、交わりを回復しようとして、なさったことが、ご自分のみ子であるイエスさまを私たち人間に与えてくださった、ということです。そのことについては、皆さんがよくご存じの聖書の言葉が示しています(ヨハネ3章16節)。
3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
今日の聖書個所に戻ります。21節には「死者の復活も一人の人によって来るのです」、22節には「キリストによってすべての人が生かされることになるのです」とありました。人間は最初の人間アダムによって罪が入り、死すべき存在となりましたが、キリストによって、復活すること、永遠の命に生きる者となる、というのです。イエス・キリストによって、私たちは、死から命へ、死すべき存在から永遠の命に生きる存在へと導かれたのです。そのことについて、23節以下にこのように書かれています。
15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
ここには、これから後に起こる神さまの救いのご計画のことが書かれています。終わりの時のことです。またそれは、「キリストが来られるとき」と書いてありますように、主が再びおいでになる時です。具体的なことは私たちには分かりませんが、この聖書の言葉から分かることは、イエスさまの復活から始まって、すでに天に召された人たち、そして、私たちは、罪と死の滅びから救われ、永遠の命に生きる者となるということです。神さまが罪と死を滅ぼし、神さまの完全な支配、救いの完成が起こる。私たちは、その時を待ち望んで、今を生きるのです。
(むすび)
27、28節をお読みします。
15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。
ここには「服従」という言葉が繰り返し書かれています。服従という言葉は今の時代、あまりなじみませんし、良いイメージもありません。特に人間同士の関係においては、人間が人間を服従させるということ、言い換えるなら、人間が人間を支配する、ということはあってはならないことです。しかし、ここでは、服従ということが、人間同士の関係では言われていません。私たち人間が、神さまに従う、イエスさまに従う、という意味で言われています。私たち人間は、私たちを造られ、愛しておられる神さまに服従する、従う者なのです。では、どのようにして従うのか、というと、神さまの掟に従うのです。神さまの掟、それは、神さまを愛すること、そして、私たちが互いに愛し合うことです。
今日の聖書個所では、終わりの時の出来事が書かれていました。私たちには、その時がいつなのかは分かりません。けれども、いつその時が来るか分からないからこそ、いつでも備えておく必要があります。どのように、備えたらよいのか、この章の最後の58節にはこのようなことが書かれています。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
「主の業に常に励みなさい」。直訳的には「主の業に常に満ち溢れなさい」(岩波訳参照)ということです。終わりの時というのは、神さまの支配が起こる時です。それは神さまの愛と義がすべてを支配する時です。ですから、その時というのは、イエスを主と信じる者にとっては、喜びの時となります。その時を待ち望みながら、私たちが今、することは何かというと、主のわざに励むこと、主のわざに満ち溢れることです。主のわざ、それはイエスさまを信じる歩みです。イエスさまの愛に倣って生きる、イエスさまの福音を伝える、私たちの歩みのことです。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」とありました。私たちにはいろいろな苦労はありますが、決して無駄にはならない、というのです。神さまは私たちのすべての歩みをご存じです。主のわざに励む私たちを喜んでおられます。終わりの時、主がおいでになる時、その時を待ち望みながら、主のわざに励んでまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
私たちは、神さまに造られたもの、それも極めて良いものとして造られ、神さまに愛されているのに、神さまから離れ、自分の思いのままに生きてしまっている者でした。そういう私たちのために、神さまはご自分の大切なみ子イエス・キリストを与えてくださり、その救いのみわざ、十字架と復活によって、神さまとの関係が回復させられ、神さまとの交わりに生きる者にしていただいたことを感謝します。
主は再び来られます。主が復活されたように、私たちも復活の恵みにあずかり、永遠の命に生きる者とされます。その時を待ち望みながら、主のわざに励む者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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