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「彼に合う助ける者」創世記2章7~25節 2024/07/28 SUN.

「彼に合う助ける者」創世記2章7~25節 2024/07/28 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―創世記2章7~25節
(はじめに)
今日は創世記2章7節からの聖書の言葉をお読みしました。創世記の初めの個所には、神さまがすべてのものを創造された、造られたことが書かれています。創世記2章7節では、神さまが人を造られたことが、具体的に書かれています。その言葉を読んでみます。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。
神さまは人を土の塵で造られた。そして、その鼻に命の息を吹き入れられて人は生きる者となった、というのです。命の息とは、神さまの霊、聖霊ということです。人は、神さまの霊、聖霊によって生きる者となった、というのです。

(聖書から)
人は、命の息、聖霊によって生きる者となった。それはただ生命体として生きる者となった、というのではなく、人として生きる者となった、ということです。それでは、人として生きる、とは、どういうことでしょうか。先月お読みした聖書の言葉から思い起こしてみましょう。1章26、27節の言葉です。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
神さまはこのように言われました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。神さまは、ご自分のかたちに似せて、人を造ろう、と言われたのです。つまり、人として生きる、とは、神さまのかたちに似た者として生きるということです。それは、目に見える姿、形ということではありません。神さまのかたちに似た者として生きる、というのは、私たちが、神さまの心、神さまのお考え、神さまの思いを知り、それに従って生きる者とされた、ということです。
けれども、人が、人として生きる、というと、何か人が、自分のありのままの姿を率直に表すようなことと考えるかもしれません。そして、それを、人(間)らしくていいではないか、と言って、賞賛することもあるかもしれません。私は文学作品が好きで、よく読みましたが、そこからは、人(間)の弱さとか、欲望といったことを知らされました。作品に出てくる人物について、ああ、自分にもこういうところがあるなあ、と共感することもありました。一方、聖書は、人がどのような者として造られたのかを教えています。繰り返しますが、人は、神さまのかたちに似せて造られました。神さまの心、神さまの思い、神さまのお考えを表す者として生きるように造られたのです。ところが、そこから外れてしまう、離れてしまう・・・。そのことを聖書は罪というのです。
さて、続いて8、9節をお読みします。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
8節をご覧いただきますと、神さまは東の方のエデンに園を設けられた、とあります。そして、そこにご自分が造られた人を置かれた、というのです。神さまはご自分が造られた人をご自分の愛する存在、大切な存在として、用意された場所に置かれた、というのです。そして、その場所に人が食べるために必要なものを生えいでさせられた、というのです。生きるために必要な場所、そして、生きるために必要な食物を神さまが用意してくださった、というのです。これは、今も同じです。今も神さまは、私たちが生きるために必要な場所、生きるために必要な食物を与えてくださっています。
続いて、15~17節をお読みします。
2:15 主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。2:16 主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
ここでも、神さまは、人が生きるために必要なものを与えられたことが書かれています。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります。「住まわせ」とあるように、住まいを与えられ、「耕し、守るようにされた」とあるように、人に仕事を与えられた、ということです。生きるための場所、生きるための食物、そして、生きるための仕事。どれも神さまが与えられたことが示されています。
私たちの持っているもの、住まいであるとか、食物、仕事、それらのすべてについて、自分の努力で勝ち取ったものと考えるのは当たり前のこと、普通の考えと思うかもしれません。しかし、聖書から聴くことは、神さまがすべてのものを与えてくださった、ということです。確かに、私たちは、自分の力、自分の努力でいろいろと苦労してきた、頑張ってきたのです。けれども、その背後には私たちと共におられ、私たちに生きる力を与え、必要なものを与え、導いてくださった神さまがおられることを忘れてはならないのです。
神さまは、人に対して、このように語られました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(16、17節)。9節には、神さまが、人が生きるために必要な食物を与えられたこと、その食べる実が成る木を生えいでさせられたことが書かれていましたが、ここではそのすべてを食べていいというわけではない。食べてはならないものがある、ということを語っておられます。
神さまは、私たちを神さまの操り人形、ロボットのように造られたのではありません。神さまは、人を自由な意志を持つ存在として造られました。自由な意志を持つというのは、自分で判断し、自分で決めることができるということです。お子さんを育てた経験のある方はよくお分かりになると思います。最初のうちは自分で判断するとか、決めることはできませんから、子供のために、親御さんの方で何でもしてあげます。そのうち、少しずつ、成長するにしたがって、自分で判断し、決めるようにと、親は握りしめていた手を離していきます。そうして、子供は自立していきます。神さまも同じです。神さまは、私たちに何が大事なことかそうでないことか、良いことか悪いことか、教えてくださいます。そして、後はその人自身に判断させる、決断させるのです。自由な存在、自由な意志を持つ存在として造られたからです。
「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と神さまは言われました。食べると死んでしまう、というのです。神さまはこうして、食べても良いもの、食べてはいけないものをお示しになりました。私たちを生かすもの、良いものは何か、そうでないものは何か。神さまは、そのことを教えられ、本人が自分で判断するように、決断するように委ねられたのです。
18節をお読みします。
2:18 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
神さまは、人は独りでいるのは良くない、と言われました。そのために人に合う助ける者を造ろう、と言われ、さっそくそのことを実行されました。19、20節をお読みします。
2:19 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来た、というのです。人はその動物たちを呼ぶと、それがその生き物の名前になった、ということです。名前が付けられた。神さまは名前を付ける権限を人に与えられました。創世記1章26、28節には、神さまが、人にあらゆる生き物を支配するように命じられたことが書かれていましたが、ここで支配というのは、神さまのみ心に適うように正しく管理することを意味します。生き物の名前を付けるということと共通する内容と言えます。
しかし、それらの生き物の中からは「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」ということです。神さまは人に合う存在を与えようとされましたが、そういう存在はいなかった、ということです。そこで神さまは次の方法をお考えになりました。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、2:23 人は言った。
「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
ここには女が、つまり、もう一人の人が創造される場面が書かれています。女は人のあばら骨で造られた、とあります。このあばら骨ということについて、ある牧師先生は「懐」、「脇」の意味があるということで、「傍らに伴う存在」を示していると言われます。これは、共に生きる存在と言ったらよいでしょうか。
神さまは人に対し、彼に合う助ける者を造られた、いうことですが、この「合う」(18、20節)という言葉は別の訳(岩波訳)では「向き合う」と訳されています。私たちは互いに向き合う存在です。互いのことを知り、理解し、そして、助け合い、支え合う存在です。神さまは私たちが互いにそのようにして生きていくことを望んでおられることをこの聖書の言葉から教えられます。

(むすび)
人は女についてこう言いました。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから」。ここには、お互いがかけがえのない存在であることが示されています。神さまが与えてくださった相手、パートナー。これは、家族や友人、教会の兄弟姉妹についても言えるでしょう。お互いがそのような思いを持ち、助け合い、支え合うことができるなら何と素晴らしいことでしょうか。私たちは、互いに助け合い、支え合うことによって、神さまの愛を表していくこと、神さまの恵みを表していくことに努めていきたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは神さまによって造られた者です。神さまにかたどって造られた者、神さまの心、神さまのお考え、神さまの思いを知り、それに従って生きる者とされたことを感謝します。
しかし、私たちは、この神さまの目的から離れてしまい、自分さえよければよい、という自己中心の生き方、罪に陥りやすい者です。どうか、罪から守り、互いに愛し合い、助け合う者として歩ませてください。そして、私たちを造られ、私たちを罪から救われた神さまを知り、新しく歩む方がありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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