自由な人として(ペトロの手紙一2章11~17節) 【週報巻頭言】2026年9月13日
自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。(一ペトロ2章16、17節)
「自由な人」とあります。自由な人とは、何ものにもとらわれない、何ものの奴隷でもない、ということです。またキリストを信じる私たちは、罪から自由にされたことを知っています。けれども、このような言葉が続いて語られていることを忘れてはなりません。「その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず」。自由ということで、自分勝手に何をしてもいいのか、というと、そういうことではありません。もし、自分勝手、わがままということであるなら、その自由は放縦に変わってしまいます。また、「悪事を覆い隠す手だて」とありましたが、自由を求め、自由に生きているつもりが、罪の奴隷になってしまうこともあるのです。ですから、与えられているこの自由をどのように用いるかということが大事なことです。
「神の僕として行動しなさい」とあります。これこそが、自由の正しい用い方です。聖書が教える「自由な人」とは、「神の僕」だというのです。日本語の聖書では、言葉を比較的ソフトに訳していますから、「神の僕」と訳されていますが、もっとストレートに訳すなら、「神の奴隷」ということです。自由な人が、神さまの奴隷とはどういうことでしょうか?
実は、聖書が教える自由な人とは、すべてにおいて自由ということではありません。ただ一つのことに囚われているのです。何に囚われているのかというと、神さまに囚われている、神さまの愛に囚われている。それが、聖書が教える自由な人です。もっと積極的な言い方をするなら、神さまに守られている、神さまの愛に守られていると言ったらいいでしょうか。
神さまの僕として行動しなさい。その後にこの言葉が語られています。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」。これが神さまの僕の生き方です。
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