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【週報巻頭言】2023年6月4日 イエスがいなければ(マタイ7章15~23節)

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」(マタイ7章21~23節)

厳しい言葉が語られています。「『主よ、主よ』と言う者」、「『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』」、ここに書いてある人たちというのは、とても熱心に、神さまにお祈りした人たちであるとか、預言をした、神さまの言葉を語った人たち、悪霊を追い出し、奇跡を行って、人を助けた人たちのことが言われていると思います。ところが、そういう人たちのことをイエスさまは、「わたしの天の父の御心を行う者」ではない、「不法を働く者ども」と言うのです。

こんな話を聞いたら、私たちは心配になります。真面目に生きているならば、良い行いに励み、正しく生きているならば、神さまは祝福してくださるだろう、喜んでくださるだろう。そう考えるのが当たり前だと思うのですが、いったいイエスさまはここで何を言われているのでしょうか?

私は、この聖書の言葉を読みながら、コリントの信徒への手紙一13章の言葉を思いました。そこには、このようなことが書かれています(一コリント13章1~3節)。

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(一コリント13章1~3節)

ここで繰り返し語られているのが、「愛がなければ」ということです。愛がなければ。神さまに対する愛、人に対する愛、それがなければ、その人の行っている立派なこと、良いことというのは、何が目的になるでしょうか?自分のことが目的になるのではないでしょうか?でも、私たち人間は本当に弱い者です。自分を人に誇りたい、評価されたい。そういう思いがまったく無いか?というと、そうは言えないのではないでしょうか。

この「愛がなければ」ということを、ある人は「イエスさまがいなければ」と読み替えて読んでみたらよい、と言います。「イエスさまがいなければ」。私たちはイエスさまがいなければ、イエスさまの愛と赦しがなければ、何もできない。そういう者なのです。

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