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自分の命を得るために マタイによる福音書16章13~28節 2025/03/09

自分の命を得るために マタイによる福音書16章13~28節 2025/03/09 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―マタイによる福音書16章13~28節
(はじめに)
 イエスさまは、弟子たちに、人々が自分のことを何者だと言っているか、お尋ねになりました。弟子たちは、人々の言っていることをイエスさまに伝えました。私たちも、私たちの周りの人たちが、イエスさまのこと、あるいはキリスト教のことを何と言っているか、いろいろと聞くことがあると思います。イエスさまは、弟子たちに、今度は、あなたがたは私のことを何者だと言うのか、とお尋ねになりました。最初の質問は、人々が言っていることを伝えればいいだけのことでしたが、今度は、自分自身がイエスさまのことを何者だと言っているのか、と尋ねられましたから、驚いてしまったかもしれません。私たちはどうでしょうか?イエス・キリストを主と信じているなら、驚くこともないだろう。簡単に答えることができるだろう。そう思われるかもしれませんが、改めて、イエスさまから、あなたは私のことを何者だと言うのか、と尋ねられると、自分は本当にイエスさまを主と信じて、歩んできただろうか?そういう反省が出てくるかもしれません。実は私たちの信仰生活というのは、自分は本当にイエスさまを主としているだろうか、と自問自答しながらの歩みではないかと思うのです。

(聖書から)
 イエスさまの問いに、弟子の一人、ペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)。「メシア」、これはユダヤの人たちが使うヘブライ語では、「救い主」ということです。新約聖書はギリシア語で書かれていますから、ギリシア語では、「キリスト」です。聖書の舞台であるユダヤでは、人々は救い主を今か今かと待ち望んでいました。ペトロも、他の弟子たちもやはり、救い主を待ち望んでいました。ペトロが、イエスさまのことを「メシア」、救い主と答えたのは、その救い主がイエスさまだと信じていたからだと思います。
 ペトロは、イエスさまの弟子として、イエスさまと四六時中、一緒に歩んできました。そのイエスさまの歩み、生き方を見て、この方こそは、救い主だ、という確信を持ったのでしょうか?そういうペトロに対して、イエスさまは、このように言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)。
 イエスさまは、ペトロのことを「シモン・バルヨナ」と呼んでおられます。これは、ヨナの息子シモンということです。16節には、ペトロのことが「シモン・ペトロ」と書かれていました。シモンというのが、ペトロの本名で、ペトロというのは、あだ名です。ここでは、イエスさまがペトロのことを本名で呼ばれました。何か意味があるのでしょうか?そして、この後、イエスさまはこのようなことを言われました。「あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。
 ペトロのことを、「あなたは幸いだ」と言われました。何が幸いなのでしょう。それは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とあるように、ペトロに、「このこと」、つまり、イエスさまのことをメシア、救い主と言わせたのは、「人間ではなく、わたしの天の父」、ペトロ自身の知恵や力ではなく、神さまによるからだ、というのです。
 ペトロはこの時、自分の知恵や力によって、イエスさまを救い主と言うことができた、と思ったのでしょうか?しかし、イエスさまは、いやそうではない。神さまがあなたに、私が救い主であることを言わせたのだ、と言われたのです。私たちもこれと同じです。イエスさまを救い主と信じるというのは、自分の悟りとか、自分が選んで、救い主を信じたというのではないのです。神さまが、私たちをイエスさまが救い主であると信じることができるように導いてくださったのです。
 ヨハネによる福音書に、イエスさまが、弟子たちに言われた言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)。弟子たちがイエスさまを選んだのではなく、イエスさまが弟子たちをお選びになった、ということが言われています。
 よくこういう質問を受けることがあります。イエスさまを信じることをやめることはできますか?クリスチャンをやめることはできますか?という質問です。私たちの人生の歩みの中では、イエスさまを信じられなくなること、クリスチャンをやめようと思うことがあるかもしれません。でも、「わたしがあなたがたを選んだ」。イエスさまが言われたこの言葉は忘れないでいたいと思うのです。主が私たちを選んでくださった、こんな私を選んでくださった。この選びは変わらないからです(ローマ11章29節参照)。
 ペトロというのは、あだ名だと言いました。これは、「石」という意味です。18節では、イエスさまは改めて、ペトロという名前で呼んでいます。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(18節)。イエスさまは、わざわざペトロと呼んで、その後にこう言われたのです。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。原語のギリシア語では、石は「ペトロス」、岩は「ペトラ」です。そうすると、何か語呂合わせのようなつもりで、イエスさまは言われたのかもしれません。そもそもイエスさまが、シモンにペトロというあだ名を付けられたのは、私の想像ですが、シモンという人が、石のようにゴツゴツした、あるいは、堅い、頑固な?人物のように見えたのかもしれません。そのシモンが、ペトロが、イエスさまのことを救い主と告白した。それを受けて、イエスさまは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたのです。
 ペトロ、石、あるいは岩。そこからは、あまり良いイメージは浮かびません。そういうシモン・ペトロの信仰告白。その上に私の教会を建てると主は言われました。私たちは、自分がバプテスマを受けた時のことを思い起こしてみたいと思います。こんな信仰告白で良いのだろうか?と思いながら、バプテスマを受けた人はけっこういるのではないかと思います。またバプテスマを受けた後でも、こんな信仰生活で良いのだろうか?と自分の足りなさ、弱さを思いながら、歩んできた人は多いのではないかと思います。しかし、そういう私たちにも、イエスさまはペトロに対して言われたように、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われているのではないでしょうか。
 イエスさまが、私たちの信仰の上に、イエスさまの教会を建ててくださる。これは、驚くことです。ここで注意したいのは、イエスさまが教会をお建てになるということです。この私ではない、この私の信仰が教会を建てるのではないのです。この私の信仰、不完全な、不十分な信仰の上に教会を建ててくださると言われる。何とありがたいことでしょうか。
 この後、イエスさまはこのようなことを言われました。「陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18、19節)。「陰府の力」というのは、死の力と言ったらよいと思います。死の力も対抗できない。教会は、死の力に負けないのです。「天の国の鍵を授ける」。天の国に入るための鍵です。教会は、その鍵を託されたのです。イエスさまは、私の教会に連なるあなたがたは、死の力に負けない。あなたがたに天の国に入るための鍵を託した。あなたがたは、人々に天の国を伝えて、人々を天の国に招き入れるように努めなさい。教会に連なる私たちに、イエスさまは、とても大切な役目、働きを託されたのです。
ところが、すぐその後には、このようなことが書いてありました。「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(20節)。なぜでしょうか?ペトロは、そして、他の弟子たちも、イエスさまはメシア、救い主であると信じていたと思います。けれども、そのメシア、救い主とはどういう方か。この時、まだはっきりとは、正しくは分かっていなかったことが、次の21節以下から分かります。
「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』」(21~23節)。イエスさまが示されたメシア、救い主とはどういうお方でしょうか?「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」とありました。イエスさまはご自分のことをこのように言われたのです。救い主は、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する。ところが、ペトロは、それを聞いて、このように言いました。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。イエスさまが言われたことを聞いて、皆さんは、もう答えを知っていますから、すぐにこのように理解するでしょう。イエスさまは、私たちを罪から救うために十字架にかかって死なれ、三日目に復活された。イエスさまという救い主は、十字架と復活によって私たちを救ってくださった。
けれども、ペトロは、イエスさまの言われたことを受け入れることができませんでした。救い主がそんなことになるはずがない・・・。イエスさまの死と復活に対して、反論したペトロに向かって、イエスさまはこのようなことを言われました。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。「サタン、引き下がれ」とあります。「引き下がれ」と訳されることが多いですが、私の後ろに行きなさい、という意味です。この話に続いて、イエスさまは弟子とは何か、ということをお話されました。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(24節)。サタン、引き下がれ。サタン、私の後ろに行きなさい。ペトロに向かって語られた言葉は大変厳しい言葉でした。イエスさまの弟子。それは、イエスさまの後に従う者です。ところが、イエスさまの後ではなく、イエスさまの前を進んでしまう。私たちもペトロのようなことがしばしばあります。しかし、そういう私たちに、主は語られるのです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。私たちは、イエスさまの後に、イエスさまについていく、イエスさまに従っていく者でありたいと思います。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(25、26節)。
「自分の命を救いたいと思う者」。自分の命は大切です。粗末にしてはいけません。それでは、ここで言われていることはどういうことでしょうか?「わたしのために命を失う者」ということも言われていました。「わたしのために」、これは、イエスさまが言われた言葉ですから、イエスさまのために命を失う者ということでしょう。この「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」という言葉を私なりに意訳してみますと、「自分の命を自分の好き勝手に生きようとする者は、命を失う。しかし、神さまのために、他者のために、命をささげる者、生きる者は、命を得る」。
26節には、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とありました。ここで「自分の命」と訳されている言葉を幾つかの聖書では意訳しています。「まことのいのち」(新改訳)、「永遠のいのち」(リビングバイブル)、「本当の命」(現代訳)。「自分の命」を、なぜ、このように訳しているのでしょうか?
「自分の命」とありますが、私たちの命というのは、自分で得たもの、自分で獲得したものではありません。私たちの命、それは、神さまから与えられたものです。それなのに、命を与えてくださった神さまを無視して、自分の思うままに使う。自分勝手に生きる。そのことを、神さまは喜ばれるでしょうか?神さまから与えられた命を、神さまのために、他者のために使う。神さまのために、他者のために生きる。その時、私たちは、この命を、神さまが与えてくださった命として、永遠の命として生きることになるのではないでしょうか。

(むすび)
 今日の最後の言葉をお読みします。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」(27、28節)。「人の子」というのは、イエスさまのことを言っていると思います。イエスさまは、十字架にかかり、死なれ、復活される。そして、天に挙げられた後、再びおいでになる。その時、主は、それぞれの行いに応じて、私たちに報いてくださる。主は、私たちのすべての歩みを、生き方を見ておられる、知っておられる。だから、世にあっては様々なことがあるけれども、主に従って歩もう。そういう励ましの言葉のように思います。
 「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。この言葉から、ここで言われている「死なない者」とは、あの弟子のことだ、いや、この弟子のことだ、と議論があったようです。しかし、ここで言われている「ここに一緒にいる人々」というのは、主の弟子たちのことであり、この聖書の言葉を読む私たちのことだと思います。主の弟子たちは、私たちは、死なないのです。死なないとはどういうことでしょうか?先ほど、命の話をしましたが、その中で、永遠の命ということが言われていました。死なないとは、永遠の命をいただくということです。だから、あなたがたは、恐れないで、主に従いなさい、最後まで従いなさい。これも主の励ましの言葉、永遠の命をいただくという約束の言葉ではないでしょうか。主を見上げて歩みましょう。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 神さまご自身が、ご自分を表してくださって、私たちは、イエスさまは救い主です、生ける神の子です、と信じるように導いてくださったことを感謝します。しかし、私たちもペトロのように、イエスさまの後ではなく、前に進みがちな者です。イエスさまの後に従う者としてください。
 神さまは、私たちに命を与えてくださいました。今まで、自分の命は自分のものと思っていました。しかし、今は、自分の命は神さまのもの、神さまから与えられた命であることを知りました。この命が神さまの求められることに用いられますように、永遠の命を生きる者としてくださいますようにお願いします。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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