「聖なる者として歩もう」ペトロの手紙一1章13~25節 2026年6月21日
(はじめに)
お読みした聖書の個所は、ペトロの手紙一1章13節からです。ペトロの手紙という書名が表しているように、伝統的には、この書はペトロが書いた手紙として読まれてきました。私が、キリストを信じるようになって、初めて、このペトロの手紙の言葉を意識したのは、1章3節の「生き生きとした希望」という言葉です。口語訳の聖書では、「生ける望み」と訳されていました。私が、北海道の札幌にいた時のことですが、札幌で新しく教会を立ち上げる働きをしておられたアメリカ人宣教師の先生が、この「生ける望み」という言葉から示されて、教会が新たに建てられていったことを思い出します。その教会は、生ける望みという言葉から、リビング・ホープ教会という名前の教会になりました。
「生ける望み」、「生き生きとした希望」。ペトロの手紙一1章3節には、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」とあります。「生き生きとした希望」を神さまが私たちに与えてくださったということです。希望、望みというと、自分の目の前の厳しい現実で心がいっぱいになって、私には希望はない、望みはない。そのように思っておられる方があるかもしれません。しかし、聖書は、神さまは私たちに「生き生きとした希望」を与えてくださったと語っています。
では、その希望とはどういうものでしょうか?1章4節には、このようなことが書かれています。「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。「生き生きとした希望」、それは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」ということです。これは、言い換えるなら、天の国に入れられる希望ということです。
キリストを信じる者の希望、それは、天の国の希望だというのです。すでにキリストを信じている方は、もちろん、私は天の国を信じている、と答えられるでしょう。けれども、天の国の希望、このことを、普段の生活の中で自分にとっての希望としているでしょうか?
コリントの信徒への手紙一15章19節には、このような言葉があります。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。この世の生活、つまり、この地上の生活だけしか考えていないということです。そういう人にとっては、天の国の希望は希望ではありません。
1章8、9節には、このようなことが書かれています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。ここには、「喜び」ということが語られています。天の国の希望を持つ者、キリストを信じ、キリストと共にあることを知る者、その人は、「言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれてい」るというのです。皆さんは、この喜びに生きているでしょうか?
(聖書から)
さて、今日お読みした聖書の言葉から聴いていきたいと思います。
1:13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
「いつでも心を引き締め」とあります。「心を引き締め」というのは、口語訳の聖書では、「心の腰に帯を締め」と訳されています。聖書の時代、聖書の舞台の人々の服装というのは、長い衣で動きづらいものでした。何か作業をする時などは、その衣をたくし上げて帯を締めました。私たちが神さまの働きに励む時も、やはり、その働きに専念しやすいようにすることが大事です。
「身を慎んで」というのは、別の訳では、「しらふで」(田川建三訳)となっていました。酔っ払わない、ということです。具体的にはお酒に酔わないように、ということになると思いますが、私たちは、お酒だけでなく、いろいろなものに酔うことがあるのではないでしょうか。中には、自己陶酔、自分に酔っている人がいます。そういう人は自分のことばかりで、周りの人のことが見えなくなります。しらふでいる、というのは、目を覚ましている、心の目を覚ましている状態ということもできるでしょう。パウロは、エフェソの信徒への手紙でこのようなことを言っています。酔うことよりも、「むしろ、霊に満たされ」(エフェソ5章18節)なさい、というのです。霊に満たされるように、聖霊に満たされるように、神さまの心、神さまの思いに心を満たすように、ということです。
なぜ、このような勧めをするのかというと、それに続いて、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」とあるように、イエス・キリストが現れる時を待ち望むためです。ここで「イエス・キリストが現れるとき」というのは、少し専門的な言葉で言うと、再臨ということです。イエスさまが私たちのところに再びおいでになる日。その日というのは、神さまの救いが完成する日、神さまの愛と義が完全に実現する日です。その日を待ち望みながら、私たちは生きるのです。
今日の説教題は、「聖なる者として歩もう」という題にしましたが、それは、14節以下の言葉から取りました。
1:14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、1:15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。1:16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
「無知」というのは、キリストを知らなかった時のことを言っています。しかし、私たちは、今はキリストを知っていますから、「従順な子」とされました。これは、私たちは、神の子とされた、ということです。それに続いて、「聖なる者となりなさい」と言われています。私たちは、「聖」とか、「聖(きよ)い」という言葉を聞くと、自分は決してそういう者ではない、と思います。確かに私たちが、神さまの前に立つ時、自分は罪人であるということに気づかされます。自分には愛がない、赦しの心がない・・・。自分が神さまの愛、神さまの真実からいかに遠い存在であるのか、離れている存在であるのか気づかされますが、そういう私たちに対して、聖なる者となりなさい、と言われているのです。それは、あなたがたは、聖なる方である神さまの子供とされた、神さまのものとされた。だからあなたがたは、そのことをいつも自覚していなさい、忘れないでいなさい。神さまの子供、神さまのものとして歩むようにしなさい、ということではないでしょうか。
1:17 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。
「この地上に仮住まいする間」とありました。この手紙は、1章1節にあるように、ディアスポラのユダヤ人、ユダヤから離散している人たちに宛てて書かれた手紙と言われています。ユダヤから離れて、他の国、土地に仮住まいしている人たちは、この言葉を読んで、自分たちは、地上に仮住まいしている者であることをおぼえたことでしょう。また、フィリピの信徒への手紙には、「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3章20節)という言葉がありますが、今はこの地上に仮住まいしている者ですが、私たちには帰るところがある、本国がある。天の国を希望として歩んでいったことでしょう。これは私たちも同じです。
今は、この地上に仮住まいをしている。その間、やがて天の国に帰る日まで、どのように過ごしたらよいのか。そのことについて、このように語られていました。「人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を・・・畏れて生活すべきです」。神さまを畏れて生活するということです。神さまは愛の方です、赦しの方です。私たちを愛しておられ、私たちの罪をすべて赦してくださる方です。しかし、それは、私たちが神さまから何も問われることがない。何をやっても、何を言っても、すべて赦されているから何も問題ない、ということではないと思います。
ですから、ここには、神さまは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方であると語られていました。ローマの信徒への手紙14章12節には、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになる」とあります。神さまは、私たちの地上における歩みについて、一人一人を問われるのです。神さまが私たちに、「あなたは、私が与えたこの地上の人生をどのように生きてきましたか?」そのように問われるなら、私たちは、どのように答えるでしょうか?そのことを意識して、この地上の生活を生きるのです。それが、神さまを畏れて生活するということです。
ペトロは、神さまの恵み、つまり、神さまが私たちになさった恵みについて語ります。
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。1:20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。1:21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。
「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっている」。この言葉について、ある牧師先生は、このように解説しています。「私たちは神によって用意された救いに神によってあずからせていただいた」(内田和彦師)。私たちは、自分の力、知恵などで信仰を、希望を獲得したわけではないのです。神さまの方で用意してくださって、神さまが与えてくださったのです。それはどのようにして用意してくださったのかというと、19節にこのように書かれていました。「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血による」。イエス・キリストの十字架の救いによることだというのです。
(むすび)
1:22 あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。1:24 こう言われているからです。
「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
私が、牧師としての献身を志し、福岡にある神学校に入学して間もなく、授業の中で衝撃を受けたことがありました。それは、新約聖書の担当の先生から教えられたことでしたが、私の信仰理解、福音理解においては目が覚めるような体験でした。それは、私たちは、神さまの恵みによって救われた者であり、救われただけでなく、神さまの恵みに応答することができる者とされた、ということです。
信仰ということを考えると、まず、神さまの恵みが語られて、それを知った私たちがその恵みに応答しようとするわけですが、実際には、神さまの恵みを知ってはいても、自分の罪深さ、肉の弱さのために応答することができないでいる。それが私たちの現実であると思います。しかし、神さまは、私たちが神さまの恵みに応答する者、神さまに従う者にしてくださった、というのです。もちろん、私たちの力、知恵などでできることではありませんが、神さまが私たちと共に歩んでくださり、神さまの力、助けによって、私たちを神さまの恵みに応える者としてくださるというのです。私たちは、そのことを信じて生きるのです。
これと同じことは、皆さんよくご存じの聖書の言葉だと思いますが、地の塩、世の光の個所でも言われています。「あなたがたは地の塩である。・・・あなたがたは世の光である」(マタイ5章13、14節)。イエスさまは、あなたがたは地の塩になりなさい、あなたがたは世の光になりなさい、とは言われず、あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である、と言われました。それはどういうことかというと、あなたがたは、人間的な努力で地の塩、世の光になろうとしなくてもよい。なぜなら、あなたがたは、神さまによって、もうすでにそういう者とされている。だから、それにふさわしく生きるようにしなさい。私があなたがたと共に歩んでいるから大丈夫。これがイエスさまの地の塩、世の光のメッセージです。
そのことを踏まえながら、22、23節を読んでみたいと思うのです。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」。「真理を受け入れて」というのは、キリストを信じ受け入れて、ということと同じことと考えたらよいと思います。真理を受け入れた者、キリストを信じ受け入れた者は、神さまがその魂が清めてくださり、神さまが兄弟愛を与えてくださっている。だから、その神さまが与えてくださった清い心で愛し合うようにしなさい、と言われているのです。
イエス・キリストを信じた人について、このようにも言われています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」。神さまの変わることのない生きた言葉によって、私たちは新しく生まれた。古い私、罪に支配され、自己中心であった私が、神さまによって、神さまの言葉によって、新しい私、神さまと共にある私とされた、というのです。私たちは、そのことを喜びたいと思うのです。そして、そのことをおぼえながら、主の恵みに生きることに励んでいきたいと思います。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
あなたが、その大切なみ子イエス・キリストによって、私たちを救いへと導いてくださったことを感謝します。私たちは、主に出会う前は、救われるために、あれをしなければ、これをしなければ、と考えていましたが、救いは神さまの恵みによることです。ただ恵みを受けるだけで、イエス・キリストという恵みを受けるだけで救いにあずかる者とされたことを感謝します。そのことを信じる私たちは、救いに対する感謝の応答として、神さまの愛に生きること、神さまの真実に生きることへと導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
この記事へのコメントはありません。