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私の内におられるイエス様が大きくなるように(コロサイ2章1〜5節)

コロサイの信徒への手紙2章2節の言葉からパウロがコロサイの教会、ラオディキアの教会のために何を祈っていたかが分かります。それは「神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるため」ということでした。神様の救いのご計画、それはイエス・キリストによる救いのご計画です。「キリストを悟るようになるため」。この言葉を幾つかの日本語訳で読み比べてみました。口語訳は「キリストを知るに至るため」、新改訳は「キリストを真に知るようになるため」、聖書協会共同訳は「キリストを深く知るようになるため」となっていました。
信仰の成長ということについて、ある人はこう言いました。私の内のイエス様が大きくなること。そして、私の内の私が小さくなること。イエス様が私を支配するということを言い表しています。それがこの箇所の言葉で言えば、イエス様を悟る。イエス様を深く知るということです。私たちがイエス様という方を深く知るようになると、そのことによって、同じく2節に記されていたことが恵みとして私たちの間に与えられるのです。「心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ」。
イエス様を深く知れば知るほど、私たちの心は励まされる。イエス様を深く知れば知るほど、私たちはイエス様の愛によって結び合わされる。イエス様を深く知れば知るほど、理解力を豊かに与えられる。この理解力という言葉は聖書協会共同訳では「溢れるほど豊かな洞察を得」るとありました。イエス様を知ると、この世のただ中に生きていても、何が正しいことかそうでないか、良いことかそうでないことか、そういう理解力、洞察が与えられるということです。
 カルヴァンという人はご存じだと思います。ルターと並ぶ宗教改革者の一人です。この人が眼鏡について書いています。神様の言葉である聖書とは私たちにとって眼鏡のようなものだ、というのです。この聖書という眼鏡を通して、私たちは神様の知識、知恵が与えられ、本当に見るべきものを見ることができる、知るべきものを知ることができるのです。

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